blissful time


薄いレースのカーテン越しに差し込む柔らかな休日の光りに誘われて、犬夜叉は静かに瞳を開けた。
まだ意識は目覚めてはおらず、漠然としたまどろみの中を泳いでいる。
しばし体温で温められた布団と人肌の心地を楽しんでいると、ふと現在の時間が気になった。
横になった状態で頭上の時計に右手を伸ばす。
布団から出した事で少し冷えた腕が運んで来たのは午前11時過ぎを指す時計。
少し寝過ぎたか、という考えも脳裏に過ぎるが、思わず全て良しとしたくなる様なゆったりとした日曜の空気に浸る事にしてみた。

段々と意識がはっきりしてきた犬夜叉は、少しずつ周りの風景を把握していく。
ベッドの近くの小さな木製のテーブルの上に置きっ放しのミネラルウォーター。
足元には脱ぎ捨ててある昨日の着衣二人分。
素のままの自分の胸板には俯せでちょこんと乗っている小さな頭。

穏やかな水流を描く様に胸の上に流れる黒髪が少し擽ったい。

(そうか、昨日あのまま…)

誰にも知られる事の無い密やかな蜜夜…
今では何も不思議でない行為では有るが、やはり何度重ねても、その光景を思い起こすと照れずには居られないのが実情だ。

夜もまだ深い頃、艶やかに舞った芳しいかごめの香りが今も尚、たまに素肌に触れる様に揺れている。

何度もこんな朝を迎えようとも、ただ、ただ、愛しさは増すばかり。


思えば人間になり、かごめと現代で共に生きていく事を決意してから幾年月が経っていた。

人間になる…
その決断に至るまでの経緯では多くの不安を感じずには居られなかった。

体力が落ちる事も勿論。
著しく低くなる身体能力と、人間としてのか弱い肉体だけで、かごめを護り切れるのか。
かごめを護る資格が有るのか。

魑魅魍魎が跋扈する事が無い現代で生活するという事は、そんな心配をほとんど取り除いてくれた。
(犬夜叉の場合は元々鍛えられていた所為か、人間である時でさえも並大抵の男よりは頼るに充分な力を備えて居たし)
しかし、挙げるとすればたった1つだけ大きな不安が残った。

それは、かごめの匂いを今までの様に感じられなくなる、ということであった。

それが何よりも嫌だった。

言葉に出来ぬくらい、狂おしい程愛おしいその香りは、半妖としての自分であったからこそ感じられていたもの。
人間になると同時に自身の嗅覚も人並みになってしまったとしたら。
かごめの匂いを感じる事で得ることが出来たあの安心感を失う事になってしまったら。

犬夜叉は自身の生活からかごめの匂いが失われる事が恐かった。



だけど――
今でも不思議と彼女の匂いだけは以前と同じ様に感じられる。
昔とは違う、半妖ではない、ただ1人の人間である自分にすら。

自分にとって、かごめの匂いが無い生活は、もう考えられなかった。
それだけ彼女の匂いをずっと追って、ずっと感じて時を過ごしてきたのだ。


寝返りひとつ打たず、未だに胸板の上で静かな寝息を立てている温かい小さな体。
犬夜叉は顔が見える様に髪を指でそっと撫で、無垢な寝顔の瞳の辺りに口付けを軽く落とす。

「ん…」
かごめは触れ合っている犬夜叉だけにしか聞こえないくらいの小さな声を漏らす。


『昨日』の余韻がまだ残っている。
この肌に鮮明と。


未だ耳に響く甘い囁きも吐息も
暗闇の中に映え、優雅に舞った腕も脚も
何処か切ない表情も…
そのどれも忘れまいと必死で焼き付けた。

例えこの先も繰り返される日常であったとしても、少しも忘れたくなかった。


そうだ、かごめ。

俺はお前に時の大切さを教えられた。
初めて今在る時を逃すまいと思ったんだ。


かごめに逢う前までは、無味乾燥で或いはささくれ立った時だけが淡々と流れていた。
進んでいるのかいないのかわからない様な時間の中で、ならば自分が消えてしまおうと思った事も有ったのに。


今では目の前を流れている一瞬がこんなにも愛しくて
記憶の何処かに繋ぎ留めておこうと無心であがいている自分が居る。

かごめと居るこの瞬間は
二度と巡っては来ない。
この瞬間を作り出せるのは今の二人だけで
過去の二人でも未来の二人でも無いのだから。


かごめと居るこの瞬間が
――かごめが愛しい。




とめどなく溢れる想いを抑えられなくて、絹の様な黒髪を絶えず優しい手つきで撫でていると
やっと重い瞼を上げ始めたかごめ。
まだ寝ぼけた表情で瞬きする睫毛は上下する度に素肌に触れる。

「あ…たし…」

横たわる犬夜叉の身体の傍に手を付き、ゆっくりと起き上がりながら周りを見回す。
背中に軽くかけられていた白いシーツがかごめの背をなぞりながら落ちていった。

そして露になるかごめの肌。
かごめは何となく物寂しさを感じた瞬間に初めて今の自分の姿態に気付き、慌てて腕を胸元で交える。

「あ…そっか…。昨日あのまま……」
何処かで聞いた台詞。

「お前、人の胸の上で涎垂らして寝ちまうんだもんな。」

「えっ…、嘘…」

悪戯な笑みを浮かべながらそう言う犬夜叉に、かごめは赤面しながら細い指先を彼の胸に滑らせるが…

「…濡れてなんかいないじゃない…」

「嘘だよ。ばーか。」

「もぅ」と怒るかごめを優しい瞳で眺める犬夜叉。


いつものかごめだ――
俺がさっきまで何を想ってたのかも知らないで−知る訳が無いのだけれど−ただいつも通りに振る舞うかごめ。

きっとこんな何気ないやりとりが本当の幸せなのだろう。
目を凝らさなければ気付かずに過ぎていってしまうもの。

彼女はそれを惜しみ無く与えてくれる。


(多分、其れと意識せずに…)

犬夜叉はそう思うと自然と頬が緩んだ。



「お腹、空いたよね?何か作ろうか?」
上半身だけ起き上がり、近くに置いてあったシャツのボタンをはめながらかごめは言った。

「…別に腹は減ってないからいい。」

そう言いながら犬夜叉も起き上がると、かごめを自分の腕の中に抱き寄せて再びベッドの上に倒れ込む。

「ちょ、ちょっと…」
「別に良いだろ。休みなんだし…」

何をするでも無く、犬夜叉は慌てるかごめを包み込む様にしながら横になる。

「…服くらい…ちゃんと着させてよ…」

「蒲団被っちまえばわかんねーよ。」


何だかんだ言いつつかごめもまた、その身を彼の元に委ねた。

二人分、温かくなるシーツの上で限りなく穏やかな時間が流れる。

ふと犬夜叉は思い出した様に口を開いた。

「そう言えば…まだ言ってなかったよな。」
かごめは自分より少し上の位置に有る犬夜叉の頭を見上げて尋ねる。

「…何を…?」


犬夜叉はかごめの頬に手を添え、自身の顔を寄せると軽く唇に触れてから言った。


「おはよう――」





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2004年頃に作ったらしいSSです。な、懐かしい…
これは当時、確実に公開していたので、御覧になった方もいらっしゃるかとは思います。

このSSのモチーフは、とある方々の曲からです。
タイトルを上手いこと訳すと正体がわかりますが、とても良い曲です…
多分その曲に無理矢理合わせて作ったんだと思います。(笑)





モドル。