23時の逢瀬
軌道に浮かび、静かに地球を見守っているオービットベースの内側。
普段のような活気が感じられない消灯後のメインオーダールームに、
キーボードを軽快に叩く音だけが響いている。
ただ一人、懸命にモニターを見詰めながら指先を動かす命は、
その日の残業を日付が変わる前に終わらすべく、淡々と仕事を進めていた。
手を止めて、ふと時計を見やる。
23時…を少し回ったところ。
一息ついて、自分を励ましながら作業に戻ろうとしたところ
「スーーーッ…」
扉が開く静かな音と同時に、見覚えの有る影が近付いてくるのがわかった。
「…凱?」
「命。まだ、残ってたんだな。」
見覚えの有る影は、やがてその詳細な姿を現し始める。
モニターの明かりに照らされた凱の表情は穏やかで、心なしか安堵した様子だった。
「仕事、終わらないのか?」
「ごめんね、もぉ少しなの!」
「謝ることはないよ。」
優しく声を掛ける凱が嬉しくて思わず微笑んだ後、
その視線に元気付けられながら命は仕事に戻る。
再び室内に響き始める軽快な音色。
暫く時間が経った頃、何かを思いついたような凱は唐突に命に声を掛けた。
「命、起立。」
命は、突然の呼び掛けに驚いた表情で声の主の方向を見る。
「え…?」
「良いから、起立。」
言われるがままに立ち、席を少し離れたところ
その隙を狙って凱は命のシートに腰を下ろした。
「ちょっと凱…」
訳がわからないうちにまんまとポジションを取られた命は、
拗ねた子どものような顔をしながら凱に文句を言った。
「私の代わりに仕事…してくれるの?」
凱は首を横に振りながら「いいや」と答える。
「じゃあ、なに…」
その先にも言葉を続けようとした時、命は凱が彼の太股を指差していたことに気付いた。
「…えっ…!?」
「座れよ」
たった一瞬で顔を赤らめた命に対し、凱は悪気も無い様子であっけらかんと提案する。
「…座れよって…」
「嫌なのか?」
内心ずるいと思いながら、命は渋々その提案に乗ることにした。
凱の鍛えられた逞しい太股に、命の太股が重なる。
きちんと体重が預けられたことを確認した後、凱の手は徐ろに命の腹部に回された。
「…えっちなこと… しないでね。」
「しないよ。」
凱の表情は命からは見る事が出来ない。が、声はくすくすと笑っている様子だった。
口ではしないと言っているし、凱が公私の分別をしっかり付けられる人だということは命にもわかっている。
(でも… 身体のほとんどの部分が凱の温度を感じている…)
そう考えると命の身体は変な熱を帯びそうになる。
(ダメ… 仕事、仕事。)
命は横槍を入れてくるような邪な考えをなぎ払い、
目の前に課せられた仕事と必死で向き合った。
「…タン」
長く続いたタイプ音が途切れた後、命は少し声を漏らしながら大きな伸びをした。
やっと休息の場所に帰れる。
そう思って背後の凱に声を掛けようと思った時
耳元に静かで規則的な息遣いが届いてきた。
「…凱、寝てるの…?」
呼び掛けても応答が無い。
凱の意識を呼び覚まさないように
命は慎重に彼の腕を解き、椅子から立ち上がって様子を確認した。
「…寝ちゃった…のね…」
何とも安らかな寝顔を浮かべて眠る愛しい人を眺めていると
微笑ましい気持ちになると共に、先に自分が抱いた感情を思うと複雑な気分にもなる。
(…私はあんなにドキドキしたのに…)
彼にとっては何でもないことだったというのか。
途端に少しの悔しさと切なさが込み上げてきて、命は寝息を漏らすその唇に小さくキスをした。
極限に近付いた顔から離れていく最中、
不意打ちのキスをお見舞いされた青年がゆっくりと目を開いていくのが見えた。
命は慌てて謝った。と同時に今自分がしたことをすぐに後悔した。
「ご、ごめん…」
「舌…入れただろ…」
「いっ、入れてないわよっ!!」
「冗談だよ」と笑う凱であったが、命にとっては気が気でない。
何かちょっとした刺激を与えたら爆発しそうなくらい、命は恥ずかしさでいっぱいになっていた。
それでも、命は勇気を出してさっき抱いた素朴な疑問を凱にぶつけてみる。
「…ねぇ、凱…」
「何だ?」
先の事が可笑しかったのか
無邪気に返事をする凱の表情はまるで少年のようだ。
「私って…そんなに魅力無いかな…?」
「…どうして?」
「だって… 私は凱の上に乗っててドキドキでおかしくなりそうだったのに
凱は…何事も無いみたいに寝ちゃうんだもん。」
少年のような表情をしていた凱は少し大人びた目付きになった。
「何か…してほしかったのか?」
「そういう訳じゃないけど…」
命は視線を恥ずかしそうに下に落とした。
「今日は一緒に居られた時間が少なかったからな…。
しょうがないことなんだけど。だから何か…命が恋しくなっちまったんだ。」
凱も少し照れているのだろうか。命の方へは目を向けず、
しかし口では自身の気持ちを包み隠すこと無く曝け出していた。
「…子どものわがままみたいだよな。ごめんな。」
凱は軽く自分を嘲笑した。
命はそんな凱を否定するかのようにすかさず応える。
「うぅん、良いの。全然。
私だって…凱が恋しかった…。だから…良いの…。
でも… 何だか、私一人だけ空回りしてたみたいで…寂しかったの…」
だんだんと小声になる命。
「…それでも、“えっちなこと”するなって言ったのは命だろ。」
「うん…」
凱は、終いには聞き取れないような小さな声で返事をする命の眼前に立ち上がり
その身体を優しく抱き寄せて、命の右脇腹あたりを軽くさすった。
びくりと少し反応した命の耳元で凱は労いの言葉を囁く。
「お疲れ様。仕事は…終わったんだな?」
「うん… 待たせてごめんね…」
弱々しく呟きながら、命は自身の腕を凱の背中に回し、しっかりと抱き締め合った。
二つの影が去ったメインオーダールームには、影が重なっていた場所に温もりだけが残されていた。
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このSSは2007年2月に制作しています。
凱兄ちゃんの上に座る命さんが書きたかったのよ…(それだけか!)
モドル
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